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東京地方裁判所八王子支部 昭和58年(ワ)1728号 判決 1987年3月02日

原告

松尾鶴三郎

松尾光子

右両名訴訟代理人弁護士

山下正祐

吉田栄士

被告

木下広明

右訴訟代理人弁護士

高田利広

小海正勝

主文

一  被告は原告ら各自に対し、それぞれ金二〇九三万九四〇五円及び内金一九〇三万九四〇五円に対する昭和五八年三月二一日以降完済に至るまで年五分の割合による金員を支払え。

二  原告らのその余の請求を棄却する。

三  訴訟費用はこれを二分し、その一を原告らの負担、その余を被告の負担とする。

四  この判決は第一項に限り仮に執行することができる。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告は原告らに対し、それぞれ金三六八一万六九三九円およびこれに対する昭和五八年三月二一日から完済に至るまで年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

3  仮執行の宣言

二  請求の趣旨に対する答弁

1  原告らの請求を棄却する。

2  訴訟費用は原告らの負担とする。

第二  当事者の主張

一  請求原因

1  当事者

(一) 原告らは訴外松尾郁子(昭和四四年一月三日生、以下「郁子」という。)の実父母であり親権者である。

(二) 被告は東京都日野市百草九九九番地「百草団地医療センター」内において「木下外科」を開設している。

2  診療契約の成立

郁子は昭和五八年三月一二日午後一〇時ころから腹痛を訴え、同月一三日午前一〇時すぎ、前記医療センター内訴外田沢内科で診察をうけたところ、急性虫垂炎と判明、同医院から被告医院の紹介をうけた。

そこで原告らは健康保険制度を利用して郁子を代理して被告に対し、虫垂摘出手術を委任したところ、被告はこれを承諾し、ここに診療契約が成立した。

3  本件事故の発生

(一) 被告は郁子に対し、同日午後二時六分ころ腰椎麻酔を施したうえ、同二時一二分ころから執刀を開始し、同二時二五分ころに虫垂を摘出した。

(二) ところが、右手術に立会つた被告の妻が右虫垂摘出直後の同二時三〇分ころ郁子の異常に気づき、被告が調べると郁子の心臓の搏動が停止していることが判明したため、被告はあわてて郁子に対し酸素吸入を施し、原告鶴三郎に心臓マッサージを施させ、看護婦に強心剤と思われる注射などをうたせた。

(三) その結果、心臓機能は一旦は回復しかけたものの、意識は回復せず、応援にかけつけた他の医師も治療にあたつたが、依然意識は回復しないまま時々目を白黒させたり、四肢を硬直させ、けいれんさせるなどのテンカン症状を呈するようになつた。

(四) そこで、郁子は同月一四日午後六時すぎころ、埼玉医科大学病院に転院し、同病院脳外科において治療をうけたが、八日間意識不明の状態を続けた末、同月二一日午後六時一六分ころ心不全により死亡するに至つた。

4  被告の責任及び因果関係

被告は前記診療契約の成立により、善良な管理者としての注意義務をもつて、当時の医学水準に照らし、医師としての専門知識及び経験に基づいた診療をなす債務が生じた。

しかるに、被告は

(一) 手術をするにあたり、充分な術前検査をすることなく、また麻酔事故を防止するための必要最少限の措置をもとらず、麻酔施行後六分という短時間に手術を開始し、

(二) 腰椎麻酔を施すにあたつては、第六胸椎にまで麻酔領域を及ばせることは危険であるにもかかわらず、敢て右領域にまで麻酔を及ぼしめ、

(三) 麻酔液注入後、一五分後位までは特に注意を要するのであるから、経験のある看護婦に患者の呼吸管理、血圧管理等を行わせ、患者の刻々の動向を把握させるべきであるにもかかわらず、かかる看護婦を配置しないまま、手術を施行し、手術開始後は一切血圧測定、呼吸管理等を行わなかつたため、患者の呼吸、脈拍、血圧等の異常を発見するのが遅れ、郁子の呼吸停止及び心臓機能の停止に気づかないまま放置し、

(四) 事故に気づいた後も、事故に対応できる体制が整えられていなかつたことから、経験のない原告鶴三郎に心臓マッサージをさせる等救命のための適切な措置がとれなかつた。

(五) 右にみたとおり、被告が医師として当然の義務を履行していたならば、郁子の死亡という結果を回避できたものであり、被告の右義務違反(過失)と郁子の死亡との間には相当因果関係があり、被告は債務不履行責任又は不法行為責任を負うべきである。

5  損害

(一) 郁子の損害の相続分

(1) 郁子の逸失利益

郁子は死亡当時一四才の健康な女子であつたから、一八才から六七才に達するまで就労可能であつた。

そこで、同女の就労可能年数四九年間の逸失利益は、昭和五八年賃金センサス第一巻第七表の産業計全労働者の月額平均現金給与額金二一万八六〇〇円の一二か月分と年間賞与その他特別給与額金七二万六九〇〇円との合計額金三三五万一〇〇円から生活費として三〇パーセントを控除し、ライプニッツ式計算法(ライプニッツ係数一四・九四七)により中間利息を控除して算出される金三五〇五万一七六一円となる。

(2) 郁子の慰謝料

本件は被告の重大な過失により患者を死に至らしめたものであるから金二〇〇〇万円をもつて相当とする。

(3) 原告らは郁子の損害金合計金五五〇五万一七六一円を法定相続分に従つて、その各二分の一(金二七五三万五八八〇円)ずつを相続した。

(二) 葬儀費用

原告らは金一八八万八一二九円を支出した。

(三) 原告らの固有の慰謝料

原告らは郁子の両親として被告の債務不履行又は不法行為により、最愛の子を失い甚大な精神的損害をうけたので、固有の慰謝料として各自金五〇〇万円が相当である。

(四) 弁護士費用

被告が原告らに支払うべき弁護士費用は本訴における請求額の一割が相当である。

6  結論

よつて、原告らは被告に対し、債務不履行又は不法行為に基づく損害賠償として各自金三六八一万六九三九円(合計金七三六三万三八七九円)及びこれに対する郁子が死亡した日である昭和五八年三月二一日から支払済に至るまで民法所定年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

二  請求原因に対する認否

1  請求原因1(一)は不知、同(二)は認める。

2  同2項中郁子が腹痛を訴えたこと、田沢内科より紹介をうけたことは認めるが、原告らが郁子を代理して、被告に対し、虫垂摘出手術を委任し、被告がこれを承諾したことは否認する。ただし、被告が虫垂手術を行つたことは認める。

原告らと被告間には診療契約は成立していない。本件診療は保険者を訴外東京自動車連合健康保険組合、被保険者を原告鶴三郎とする健康保険法に基づく公法上の保険給付、いわゆる療養の現物給付であるから、診療契約の一方の当事者は右健康保険組合であり、被告はその履行補助者にすぎない。

3  同3(一)は認める。

4  同3(二)中心臓が停止していることが判明したことは否認し、その余は認める。

5  同3(三)中意識が回復しなかつたこと、目を白黒させたり、四肢を硬直させ、けいれんさせるなどのテンカン症状を呈するようになつたことは認め、その余は否認する。心臓機能は回復した。

6  同3(四)は不知。

7  同4はすべて争う。

特に同4(五)につき、本件腰椎麻酔及び手術は正しい手順で行われているにもかかわらず、ショック状態が発生したのは郁子に胸腺リンパ体質などの特異体質があつたからで、本件医療行為と郁子の死亡との間に法的因果関係はない。

8  同5、6項はすべて争う。

第三  証拠<省略>

理由

一当事者

1  請求原因1(一)の事実は成立に争いのない甲第一号証によつてこれを認めることができ、同(二)の事実は当事者間に争いがない。

二診療契約の成立

同2のうち、郁子が昭和五八年三月一三日午前一〇時ころ、虫垂炎の疑いで訴外田沢内科の紹介により、被告医院に来院したことは当事者間に争いがなく、原告鶴三郎及び被告各本人尋問の結果によれば、原告らが被告に郁子の診療を依頼し、被告がこれを承諾したことを認めることができ、従つて、原告ら被告間に診療契約が成立したものというべきである。

ところで、本件診療が原告鶴三郎を被保険者とする健康保険制度を利用して行われたことは当事者間に争いがないところ、被告は原告らと被告間の診療契約の成立を否定し、右契約の一方当事者は健康保険組合であつて、被告はその履行補助者にすぎないと主張するが、被保険者は自己の選定する保健医療機関で診療を受けることができ(健康保険法第四三条三項)、医療費の一部を当該医療機関に支払う義務(同法第四三条の八)の存する以上当該医療機関との間で診療契約が成立するものというべく被告の右主張は採用できない。

三本件事故の発生

請求原因3(一)、同(二)(ただし、郁子の心臓の搏動が停止していることが判明したことを除く。)及び転院する時点まで意識が回復していなかつたことは当事者間に争いがない。

右争いのない事実に<証拠>を総合すると以下の事実を認めることができる。

原告らは昭和五八年三月一二日午後一〇時ころ郁子が腹痛を訴えたため、翌日午前一〇時ころ百草団地医療センター内の田沢内科に診断を求めたところ急性虫垂炎と診断され同センター内の被告医院を紹介された。

被告が同女を診察したところ急性虫垂炎に罹患していることが確認されたため当日午後に手術することになつた。

被告はこれまで一〇〇〇件以上の虫垂炎手術(昭和四九年被告医院開設後四〇〇件以上)を経験しており、その間事故を経験したこともなく、被告は右手術を手慣れたものとしていた。

被告は手術前に郁子の胸部写真、心電図、血圧測定(最高一〇八、最低六〇)等を実施したが異常は認められなかつた。

被告はこれまで虫垂炎手術にさいしては、執刀医たる被告、器械出しの看護婦(手術中執刀医に手術用の器具を受渡す等の役割を分担する。)一人、雑用係の看護婦(患者の動向をチェックする役割を含む。)一人で行うのが通例であつたが、本件の場合あいにく日曜日で看護婦が一人しか在勤していなかつたため、被告は器械出しの看護婦一人のほか、雑用係の看護婦にかえて無資格の被告の妻を立会わせたが、このようなことは被告としても他に一回位しか経験したことがなかつた。

被告は硫酸アトロピンを注射したのち、午後二時五分ころ麻酔液ペルカミンS2・一CCを郁子の第三、第四腰椎間に注入したところ、麻酔領域は第六胸椎(TH六)にまで及んだ。

そして、注入直後血圧を測定したところ、最高血圧九〇、最低血圧六〇にまで下降したことが認められた。

被告は午後二時一二分ころに手術を開始し、同二五分ころに虫垂を摘出した。

その後、原告鶴三郎を入室させたうえで、筋肉縫合中の同三〇分ころに郁子の頭部付近にいた被告の妻が郁子の顔色がおかしく呼吸をしていないらしいことに気づいた(手術中は患部以外は手術カバーが全身にわたつてかけられているため被告及び器械出しの看護婦は手術中は患者の顔を観察することはできない。)。

そこで、被告が急拠手術カバーを取り除いて診察したところ、郁子は顔面蒼白になつて既に呼吸を停止しており、脈もふれないため、心音を確認するいとまのないまま、酸素吸入の実施、呼吸促進剤、昇圧剤の投与等救急措置を施すかたわら、原告鶴三郎に心臓マッサージを施させたが意識は回復しなかつた。

その後、血圧は最高一七〇まで回復し、一時自呼吸や痛覚、対光反射や開眼行為が現われたが意識は回復しないまま転院先の埼玉医科大で同月二一日午後六時十六分死亡するに至つた。

四被告の責任及び因果関係

前記二の認定事実によれば、原告らと被告間に郁子の診療を目的とする診療契約(準委任契約)が成立し、従つて被告は善良な管理者としての注意義務で医師としてその専門的知識、経験を活用して診療をなすべき債務を負担したものというべきである。

そこで判断するに、<証拠>によれば、脊椎麻酔にあたつては交感神経遮断により血圧低下、血流不全を来す危険性があること、特に脊椎の高位レベルに麻酔が及んだ場合心搏出量の減少によりショック状態をひきおこす危険性があること、上腹部以上の高位レベルの麻酔では肋間神経の麻痺により呼吸不全が起る危険性のあること、血圧低下は麻酔開始後二五分以内に起り、急変事故は麻酔開始後一五分以内にその九〇パーセントが発生していること、右事故は一五才以下の弱年者に多発していること(被告はこれらの事実を一般的に認識していた。)、従つて、虫垂炎手術にあたつてはできるだけ上腹部に麻酔が及ばぬよう第八胸椎(TH8)までのレベルにとどめるべきであり、またこのレベルで手術は十分に可能であること、麻酔が第六胸椎(TH6)のレベルにまで及んだ場合は肺及び気管支の領域にまで麻酔が及ぶことになり肋間筋や気管支の筋肉を麻痺させ呼吸不全を来す危険性を有するのでこのような場合特に術中もたえず、呼吸の数や仕方、脈の速さや強弱、血圧、心音等のバイタルサインの変化を観察(バイタルチェック)しておく必要があり、異常が起つた場合に直ちにこれに対処できる体制をとつておく必要のあること、そのためには、器械出しの看護婦のほか、右患者の動向観察(バイタルチェック)のために熟練した看護婦を手術に立会せる必要性があり、執刀医が右看護婦にかわつてこれを常時チェックすることは不可能であること、右看護婦が確保できない場合は、体制のととのつた病院へ転院させるか、極めて緊急性のある場合を除いて、点滴その他抗生剤を投与したりしながら経過を観察するべきであることを認めることができ、右認定に反する被告本人の供述部分、特にバイタルチェックを担当する看護婦がいなくても執刀医たる被告がこれを充分カバーできる旨の供述は採用できず、他に右認定を動かすに足りる証拠はない。

そこで、前認定の事実に被告本人尋問の結果を総合すると、被告は脊椎麻酔の危険性は一般に認識しながら、これまで事故を起したことのないことから来る自信からバイタルチェックをするために不可欠な看護婦がいなくても、被告自身でチェックしながら手術を遂行できるものと軽信し、転院や点滴等による経過観察の方法選択につき一顧だにせず、しかも、麻酔が第六胸骨(TH六)にまで及んでいるのを認識しながらバイタルチェックの看護婦を欠いたまま手術の実施にふみきり、ために被告の妻に指摘されるまでバイタルサインの悪化に気づかず、呼吸停止、脈拍停止に至るまで郁子を放置したことが認められる。

そうすると、被告は右注意義務違反(過失)により債務不履行を生ぜしめたというべきである。

また、児島証人の証言によれば、被告が経験ある看護婦をしてバイタルチェックさせていれば、郁子の異常を早期に発見できて同女を救命しうる高度の蓋然性があつたにもかかわらず、その機会を失わせ死亡するに至らしめたものと推認されるから、被告の義務違反(過失)と郁子の死亡との間には相当因果関係がある。

被告は郁子の死亡は胸腺リンパ体質などの特異体質によるもので、本件医療行為と郁子の死との間には法的相当因果関係はないと主張するが、これを認めるに足りる証拠はない。

そうすると、被告は郁子の死につき債務不履行責任又は不法行為責任を負うべきである。

五損害

1  郁子の損害の相続分

(一)  郁子の逸失利益

原告鶴三郎の尋問結果によれば、郁子は死亡当時一四才の中学二年生であり、生前は健康な女子であつたことが認められるから、一八才から六七才までの四九年間就労が可能であり、その間に成立の争いのない甲第六号証によれば、昭和五八年度賃金センサス第一巻第一表の産業計、企業規模計、学歴計、女子労働者全年令の年間平均給与額二一一万二〇〇円と同額の年間収入を取得しえ収入の三割に当る生活費を要すると推認され、ライプニッツ式計算方法(ライプニッツ係数一四・九四七)により中間利息を控除して郁子の逸失利益を計算すると、金二二〇七万八八一一円となる。

(二)  郁子の慰謝料

郁子の死亡時の年令、本件医療過誤の態様その他本件口頭弁論にあらわれた一切の事情を考慮すれば、本件医療過誤により郁子が被つた慰謝料としては金九〇〇万円が相当である。

(三)  原告らは前認定のとおり郁子の父母であるから、右(一)、(二)の合計金三一〇七万八八一一円の損害賠償債権につき、同女の死亡により法定相続分(各二分の一)に従い各金一五五三万九四〇五円ずつ相続したというべきである。

2  原告ら固有の慰謝料

本件医療過誤の態様、原告らと郁子との身分関係その他本件口頭弁論にあらわれた一切の事情を考慮すれば、本件医療過誤により原告らが被つた慰謝料としては各自金三〇〇万円が相当である。

3  原告らの葬儀費

<証拠>によれば、原告らは葬儀関係費用として金一八八万八一二九円を支出したことが窺われるが、郁子の年令、身分等本件口頭弁論にあらわれた一切の事情を考慮すれば、右金員中金一〇〇万円(原告ら各自金五〇万円ずつ)をもつて本件医療過誤と相当因果関係のある費用と認める。

4  弁護士費用

原告らが原告代理人弁護士に委任して、本件訴訟を提起し、維持していることは本件記録上明らかであるところ、本件事案の内容、訴訟の経過、認容額に照すと、原告らが請求しうる弁護士費用としては金三八〇万円(各自金一九〇万円)が相当である。

六結論

そうすると、原告らの本訴請求は各自金二〇九三万九四〇五円および内金一九〇三万九四〇五円に対する不法行為時である昭和五八年三月二一日以降完済に至るまで年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める限度で理由があるからこれを認容し、その余を失当として棄却し、訴訟費用の負担につき民訴法第八九、九二、九三条を、仮執行の宣言につき同法第一九六条を適用して主文のとおり判決する。

(裁判官坂本重俊)

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